御祭神


・応神天皇

品陀和気命(ホムダワケノミコト)

 

・神功皇后

息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト)

 

・宗像三姫命

 多紀理姫命(タキリヒメノミコト)

 多岐都姫命(タギツヒメノミコト)

 市寸島姫命(イチキシマヒメノミコト)

 

由緒

社記によれば、天智天皇五年(666年)二月に高津尾の里降原(現在の郷原)影向石に八幡大神の神霊(みたま)が出顕。「吾は廣旗八旗神なり」と宮崎守明に神託したとも云われています。

その後、養老四年(720年)秋、始めて放生会(ほうじょうえ)あり、大宮司並びに次官十二名供奉云々とあるを以て、当時社頭が盛大で在ったと考えられます。
 天喜三年(1055年)、社殿を山本村沼に遷し、沼宮と称されました。享禄五年(1532年)、大友氏の兵火に遭い、社殿を悉く焼失しましたが、天文五年(1536年)、大内氏が社殿を再建しました。その後、東西大野郷十六ヶ村の産土神となりました。同年八月大野山上に鎮座大野八幡宮と称し、大野郷(東谷、中谷の全村及び合馬、田代17ヶ村)の産土(うぶすな)神と崇む。

寛文七年(1667年)丁未(ひのとひつじ)衆庶の崇敬によって、現在地花枝山に社殿を建立勧請せられ、以来東大野八幡神社と称し、東谷十ヶ村の産土神と崇められ、また寛延二年(1749年)二月二十日、小倉城主小笠原忠基公が奉幣し、里人に社殿再建を命じられました。その後小森手長大社となり、明治五年郷社となりました。